北村智恵「風の声」より
写真・岡本 央
2024年12月
私の、音楽書ばかり並んでいるレッスン室の本棚の隅っこに、硫酸紙のカバー(それ自体今では珍しい⁉)だけでなく表紙までもすっかり褪色し、全体にセピアカラーに変色してしまっている古くさい一冊の本が長年ひっそりと、だが確かにそこに存在している。高校時代、二年三カ月も入院していた期間中に、声楽の先生が「励ましになれば」と言って直接私に手渡された言わばお見舞いに頂いた本だった。その時のことは今でもよく覚えているがそれは、硫酸紙のカバーを透してさえ鮮やかな山吹色だった。そして、驚いたことにおもて表紙に本のタイトルが書かれていなかった。指揮台の上で棒を振りかざしているイラストが、単純な線書きで描かれているだけで、文字も絵も何もなく、背表紙を見て初めて、タイトルと著者名が判明 それもフェルト・ペンか写譜ペンなどで手書きしたような一字ずつ文字の大きさや角度が不揃いの、著者名だけが活字、そして一番下に細い小さな文字で出版社名が印刷されていた。「ボクの音楽武者修行 小澤征爾 音楽之友社」と。背表紙でしかそれが何の本なのか解らない、今思えば斬新な表紙だと思う。
最近、小澤征爾が亡くなったことでテレビでの彼の特集番組を見て、この本のことを思い出し、改めて手に取ってみた。本棚には「やわらかな兄 征爾」という弟の著書や、武満徹との対談集はあったが、小澤征爾自身が書いた本はこれしかなかった。奥付を見ると昭和三十七年(一九六二年)の発行。何と定価二八〇円!しかも、廃止となって久しい「検印」の四角い紙片が糊で貼り付けられていた。すべてがセピアカラーの古ぼけた本の中で、「小澤」と捺印された文字の朱色だけが妙に生なましく感じられた。
「ボクの音楽武者修行」は小澤征爾が、ヨーロッパでより深く指揮の勉強をしたいと考えたものの、資金がなく、友人・知人にカンパしてもらった僅かのお金と、東京中かけずり回ってやっと条件付きで提供してもらえた「バタバタ」(彼がそのように表記している小型オートバイのことで、私自身も憶えている言葉だが、正式にはスクーターと呼ぶ乗り物)だけを頼りに、神戸から貨物船に乗って渡欧した青年小澤征爾の手記である。
彼は昭和十年(一九三五年)満州の奉天で生まれ翌年から北京で育ち、第二次大戦勃発直前に東京へ戻ったという家庭の三男であり、時世柄、敗戦後は特に、食べる物にも事欠く大変な生活の中、男ばかり四人の子どもを育てた彼の両親はピアノだけは手放さず、家庭内にはいつも音楽があったという。世界のオザワの原点は、そこなのだと思う。クリスチャンだった母の影響で兄弟はいつも讃美歌を男声四重唱で歌っていたことから、成城学園中学の三年生で讃美歌を合唱するグループを作り、その合唱の指揮をしたのが「指揮者」の初体験だったらしい。ラグビーに夢中になっていた少年ながらそれでも一流のピアニスト(豊増昇)にピアノを習わせていた両親も凄いと思うが、その後、日比谷公会堂でレオニード・クロイツァーがベートーヴェンの「皇帝」を弾き振りしている姿を見て、「指揮者になりたい」と思いつき、成城学園の高校に進学していたのに桐朋学園高校音楽科へ入り直したという彼自身の行動も凄い。(許した親も!)
企業から、1.日本国籍を明示すること、2.音楽家であることを示すこと、3.事故を起こさないこと、これらの条件付きでスクーターを借り、貨物船でひと月近くかかってフランスに着いた彼は、白いヘルメットに日の丸のはち巻きをしめ、ギターをかついで、たった一人でフランスのあちこちを走り回り、ブザンソンの指揮いコンクールで、日本人初の一位となった。その後のことは多くの人が知るところだが、世界のオザワになってからの彼の指揮者としての活躍だけでなく、私は彼の人間性の素晴らしさ、人としての素晴らしさにずっと感銘を受けてきた。それはきっと、若い時の「武者修行」で得た体験と無縁のものではないと思う。また、どんなに苦労している時も、順調な時も、ずっと家族や友人に手紙を書き続け、自分を支えてくれている人々への感謝を忘れなかった彼の真実・彼の生き方そのものの重みだと思う。
このムジカ工房通信の、一九九五年四月一日発行の号で〝人が繋がる「コンサート」を〟(各駅停車の音楽人No.5)と題して私は、阪神大震災直後のアルカイック・ホールでの小澤征爾指揮(新日本フィルハーモニー交響楽団)のオペラを観に行ったときのことを書いている。(当時のバック・ナンバーが少し残っています。御興味おありの方はムジカ工房までご連絡下さい)そのとき私は、オペラ開演前のマエストロ・オザワの言葉と演奏に、心から「音楽」は「祈り」であると思い、その後もずっとそう信じてきた。「祈り」というものが「他者への思い」であるならば、作曲家にとっての「作品」、「演奏家」にとっての「演奏」は、とりもなおさず「祈り」である。人種や言葉を越えって、それは何より確かな「祈り」だと、心から思わされたのがオザワのその日の演奏だった。そして、そういう音楽における偉大さを伝えることこそ、私が選んだ「音楽教育」という仕事の目的なのだと再認識した日でもあった。
それから十六年経ち、3・11の東北大震災が起こったとき、世界のオザワは、現地に何度も赴き、子どもから若者までの「東北ユース・オーケストラ」を結成して子ども・若者達を指導し続け、亡くなるまでその姿で人を育てた。彼や彼女達は繋がり合い、音楽することで「生きて行く力」を学んだと思う。その中には、本ものの音楽の偉大さを知り、専門の道に進んだ青年・少女達もいるという。
かってバーンスタインに愛され指揮者として、より実力を伸ばし世界のオザワになった彼は、同じように若い人達を愛し、例えば佐渡裕のような指揮者を育てた。もちろん、そのような彼の仕事ぶりや生き方も素晴らしいが、癌と闘い、向き合い、何度も苦難を乗り越えながら、東北なる「地方」で「素人」の子ども達や若者に、本ものの音楽の素晴らしさとその偉大さを感じさせ、生きることの意味を、言葉ではなく、彼の生き方や「音楽」の力で教え育てた力は本当に大きかったと思う。
五十数年前、声楽の先生がお見舞いに下さった「ボクの音楽武者修行」を、私は大学病院のベッドの上で読んだ。そのとき、このヒトがその後こんな有名な人になるとは知らなかったが、「どんな困難な時でもどんな緊張や孤独で不安な時でも、外(状況)と内(自分)を冷静に見つめ、諦めないことの大切さ」を、私はこの本で学んだ。たった一行「それには絶えず目を外や内に向かって開いていなければならないのだろう。」と書いてあっただけだけど 。
また、「おとなになると子供のころのいちずな心が失われる。雑音を気にして純粋でなくなる。」という言葉や、日本から外国に行くということは、将来は変わるでしょうけれども、今は非常に難しいことの一つとされています。ぼくはその中で非常に幸運だった者の一人ですが、これから先その難しい問題を通り抜けて外国に行く日本の若い音楽学生、ぼくたちの仲間の音楽家たちのために、いい点にしろ、悪い点にしろ、少しでも参考になれば幸いだと思っています。」というあとがきをもう一度読み直してみて改めて思った。
今、簡単に外国へ行けて、親から仕送りを受けて留学している人達の多い日本人 条件付き(日本の商品の宣伝)でスクーターを借り、カバン一つで貨物船で渡欧し、フランス語の辞書一冊、地図一枚で、超難関のブザンソン指揮コンクールを受けに行った一人の青年の思いの強さや学びの深さを、今、どれだけの若者たちが理解できるだろうか と。
「スマホ」は便利だが、それゆえ何かが失われて行くような気がする。
2024年6月
常づね私は、人間にとって本当に大切なものは二つしかないと言い放っている。「命」と「尊厳」 究極のところでこの二つ以上に大切なものなど何もない(と思っている)。「命」が大切なことは誰もが知っているし、思ってもいる。だが、その「命」は、生物学的な生命だけではない。人間として人間らしく、そして自由に生きられること、加えて「その人らしい暮らし・生き方ができること、それらが保障されていてこその「命」だと思う。
「尊厳」という言葉は固くて難しい印象を与えるが、平たく言うと、その人らしい有り様が尊ばれる(保障される)ことなのではないかと思っているのだ。権力者にとって都合の悪い人間を拘束したり、追放したり、粛清という名の下に非合法の死刑を与えたり、それを見せしめにして多くの民衆を従わせる独裁者は現在も含め、いつの世にも絶え間ない。そんな時にも人々は、抗う機軸として連帯し、その際その集まりには常に「歌」が一つの術として在った。
また、太古の昔からあらゆる国の民族や人々が、日照り続きで雨が降らないことを嘆いては「雨乞い」の、歌のみならず「踊り」まで踊った。雨乞いだけではない。天災が起こらないことや豊作を願い、豊年を祈願したり、豊年を祝ったりする「豊年踊り」も、人々は毎年踊り続け、踊りは神に奉納するものだった。
個人の感情や悲喜こもごもを歌う「歌」はもちろんそれなりに、癒やし、励まし、共感にも繋がるが、民衆が共に歌う「歌」は、それらを超えて「連帯」に繋がる。だからこそ民衆は、連帯するために「共に歌う」ことを知っている。「歌」も「踊り」も、その対象が「自然」であれ、時の権力者であれ、外国からの支配者であれ、それらは、人々の願いと祈りの象徴だった。「歌」も「踊り」も人が人間として最も大切なもの、つまり、自らの命と尊厳を守るために連帯することにおいて、自然発生的に生まれてきた「文化」のようなものであろう。なぜなら、文化とは、言語・習俗・食べる物・道徳・宗教、種々の制度や価値観、等、社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体であろうから、その他(各地)の人々(=民族)が共に歌ってきた歌や共に踊ってきた踊りは、まさしく「文化」である。その地の民族・民衆が、あらゆる意味で、連帯して共に生きてきた一つの手段、大切な媒体として今も各地に残されている歌や踊りは、どの時代も民衆が共に生き抜いてきたことの証しなのだと思う。また、この場合の民族・民衆という言葉は、決して国家の一員という意味での「国民」とは違う。国家やそこに所属する国民というのはその時どきの政治体制によって変わるものであり、法的に、他律的に決められる。だが「民族」というのは、従来、共通の出自・言語・宗教・生活様式・居住地などを持つことに帰属意識を共有する集団であり、複数の民族が共存する国(国家)も多いと思う。
二〇二二年の二月に始まったロシアの、ウクライナへの侵攻はもうすぐ丸二年になろうとしている。最近ではガザ地区へのイスラエル軍の攻撃状況のニュースのほうがメディアに取り上げられることの多い毎日だが、ウクライナの悲惨な状況は当初と少しも変わってはいないし、むしろウクライナの国民は、当初よりもっと大きな被害を受け、戦争が長引いている分、兵士のみならず一般国民の命も底知れず奪われていて、破壊された家や土地の惨状はニュースにもならなくなっている。今、ロシアがウクライナに対して行なっていることは、一九世紀のロシアがポーランドに対してやっていたことと全く同じである。帝政ロシアが、ヨーロッパの強国たらんとした二百年近い歴史は、領土拡大のための戦争の歴史であり、その間、ポーランド、ウクライナ、クリミア、カフカース、中央アジア、シベリア、極東の諸外国、諸民族の多くの人々が犠牲になってきた歴史に等しく、帝政(皇帝)から共和国(大統領)に代わっただけで、国民を騙し欺くプロパガンダを利用してまで戦争を続け、他国を侵攻するという政治の本質は少しも変わっていない。
いつの世も、強国は、より強国であろうとして常に、他国の、土地や財宝、権威や権力を奪うために、絶え間なく戦争を繰り返している。「過去」から何も学んでいない人間が「政治」という名の下に国を動かしている。「民衆」は両国とも、常に、そういう権力者に翻弄されてきた。(ウクライナ人だけでなく、今のロシア国民もきっと同じだと思う。)
さて、軍事力で土地や財産を奪うことはできるが、民衆の「歌」や「踊り」、つまり民謡や民族舞曲を奪うことは誰にもできない。民衆に受け継がれてきた文化としての歌や踊りは、どんな強国、どんな権力者でも奪うことができないほどの「音楽の偉大さ」を持っているからだ。
民衆は、共に歌うことで共感し、心を一つにする。定住地を持たないロマ(ジプシー)の人達でも独自の音階、独自の旋律、独自の音楽を持っていて、それは、その人達が生き延びるための糧、生きて行く力となった。何らかの事情で北インド地方を追われ、定住地を持てなくても、「歌」と「踊り」が人の身を助けた大きな一例であろう。最初にヨーロッパに流れついたロマの人々がエジプトから来たと思い違いされたことで「ジプシー」と呼ばれるようになったが、その人達の歌と踊りは、流れ着き定着した先、ハンガリーでは、その地の土着の踊りと結びついて高度な「チャルダッシュ」となり、また、スペインの定着先ではその地の歌や踊りと同化して「フラメンコ」となり、共に今も世界中の人達に愛されている。クラシックのドイツ人作曲家ブラームスが、ジプシー音楽の旋律をそのまま用いて編曲・出版した四手連弾用のピアノ曲は名曲として今でも有名だが、出版当初、当時のジプシーの旋律をそのまま使っていることで著作権をめぐって世の論争にもなった。あれこれ影響は大きく、ジプシーの人々のヨーロッパにおける「歌」と「踊り」のカミング・アウトがなければ、シューマンの有名な合唱曲「流浪の民」も生まれなかったことであろう。少数民族の歌や踊り、音楽そのものが「作曲家」と呼ばれる人達の芸術性を高めることに繋ったことも改めて思うと、音楽史上の大切な事実だと思う。
もう一つ、「文化としての音楽」の中で私は、アメリカ黒人社会における「ジャズ葬」のことを伝えたかった。「聖者の行進」は、ジャズのスタンダード・ナンバーとして広く知られているが、私はこの曲をアメリカ黒人の民族音楽として捉えている。アメリカのルイジアナ州ニューオーリンズでは、今も一般的に「ジャズ葬」が行われる。ジャズ葬は二部構成になっていて、前半は、故人の遺族・親友など関係者のみが参加し荘重な音楽を演奏しながら葬儀場から墓地まで棺を運ぶ。その後、埋葬を終えた後、帰路のパレードとして賑やかな曲を演奏しながら街を練り歩くのだが、その時は、遺族や関係者だけではなく、その歌に共感したり音楽に魅せられた、通りすがりの人達も一緒に歌ったり手拍子を打ったり、リズムに合わせて手持ちの傘やハンカチを振り掲げてパレードを盛り上げる。そのような形態の葬儀が「ジャズ葬(Jazzfuneral)」と呼ばれるものだが、「聖者の行進」はそのジャズ葬発祥の曲だった。
白人からの「奴隷狩り」に遭い、遠いアフリカ大陸から動物扱いで苦しい船旅を強いられ、そこを生き延びても北アメリカで人身売買され、人間としての権利・自由も認められず、他人の所有物として取り扱われたまま全支配に服し、過酷な強制労働に耐え、譲渡・売買の対象とされていたアメリカの黒人達の不条理な人生を想うとき、後のち、このジャズ葬が発祥したことは容易に想像できる。葬儀前半では荘重な音楽が故人の死を悼むためのものであることに対して、帰路のパレードの明るさには、魂が解放され、神の御評、天国へ召されて行くことを祝う意味が込められていることを 。黒人達は、長い間奴隷として詐取され、解放後も人種差別により、迫害され続けた。加えて、ニューオーリンズは湿地帯であり、昔から黄熱病や天然痘などの伝染病が蔓延していた土地である。ニューオーリンズの黒人奴隷にとっての現世は、ただただ苦しみと悲しみに満ちたものであり、そんな辛く悲痛な現実から解き放たれる唯一、最大の救いが「死」だったのだとしたら、その死によって解放され救われた仲間への祝福が「ジャズ葬」となり、通りすがりの多くの共感者の参加によってパレードを盛り上げたい気持ちは深く理解できる。「聖者の行進」は、その「ジャズ葬」発祥時からの代表的な曲であることと、その歌詞内容から、やはり私は、アメリカの黒人の民族音楽と理解している。
ところで、日本でもよく知られている朝鮮民謡「アリラン」は、韓国ソウルを中心とする京畿道(キョンギド)の民謡であり、日本以外の外国人にも親まれている。たった五音の音階(ペンタトニック)でできていて覚え易く歌い易いのもその理由の一つだと思うが、実は、韓国・朝鮮に「アリラン」という民謡は、何曲も存在している。「江原道(カンウォンド)アリラン」や「珍道(チンド)アリラン」「 善(チョンソン)アリラン」、日本の追分節のように自由リズムで歌う「キーンアリラン」、及び、喉を絞めつけるような発声で劇的な表現を特徴とする南道(ナンド)民謡の「密陽(ミルヤン)アリラン」等、同名の民謡が多く存在している。今回私は、「密陽アリラン」を、プログラムの中に組み入れた。叫ぶような特徴ある歌と共に、サムルノリ(韓国朝鮮の農楽等、民俗音楽を起源とする、四種類の打楽器のみを用いる音楽・芸能の形態)の響きまで、四手用だがピアノでリアルに表現できるよう、巧みに編曲された楽譜を以前から持っていたのでピアニスト二人の教え子がそれらしい音で弾いてくれたが、この「密陽アリラン」は慶尚南道、密陽の町にいた阿娘(アラン)という美しい娘の名に由来している。阿娘は役人に横恋慕され、貞節を通したため、その役人(権力者)に刺し殺されたと伝えられている。その悲話が歌(民謡)になったもので、殺された阿娘が訴えている一種の「恨み節」とも言えるだろう。
「私をご覧よ。ちょっと見てよ。冬至の花を見るように(この哀れな)私を見てちょうだい。アリアリラン、スリスリラン、アラリガヤンネ アリラン峠を越えて行く 」という歌詞である。ちなみに有名な京幾道アリランは
「アリラン アリラン アラリヨー アリラン峠を越えて行く 私を捨てて行く君は 一里も行かずに足が痛む」という歌詞内容だが、これも実は、李太王朝(一八七〇年頃)大院君が景福官復興(築城)のため全国から青年を労働力として徴用したので、自分(娘)と別れて恋人が村から離れて行くことを恨んで歌ったものであり、青年の側では逆に、「我離娘(アリラン)」として、労働の合い間に、故郷やそこに残してきた娘(恋人)を思いながら歌ったとされている。どの地方の「アリラン」も、権力や時代に対する反感・恐情を歌った(訴えた)ものが多く、やはり「恨み節」であることが共通している。
そういえば、日本では「うた」という言葉を表すのに幾つもの漢字が使われる。近・現代においては、「詩」の場合、旋律はなく、声に出しても言葉のリズムのみで、いわゆるポエムの形態。「唄」の場合、わらべ唄や子守唄・舟唄・民謡、等のように、もとは言葉に旋律やリズムをつけて声に出すもの、あるいはそこから発展したメロディーだけが素朴にうたわれるものに対して用いられることが多い。「歌」は、広範囲に使われて、童謡・唱歌・歌謡曲、様ざまな芸術歌曲に至るまで、ピアノやギター、オーケストラなど、伴奏を持つほどのものも多く、多種多様なジャンルで幅広く、また最も多く用いられている漢字ではないかと思う。(もちろん、各漢字の用い方に規定があるわけではないが )
詩・唄・歌すべて「うた」と発音し、少しずつニュアンスが違うが、共通しているのは、「声に出すもの」ということである。それは人に、つまり他者に、声で何かを伝えるという役割りを担っているからかも知れない。
五十数年も前のことだが、私が大学に入学して間もなくの頃、その当時すでに定年退職間近だったある教授が、授業中「余談ですが」と前置きして「音楽とは、音で人に何かを伝えるものです。うた一つとっても、こんなに沢山の漢字がありますが、共通しているのは皆、口(くち)が入っていることです。つまり口から発せられた声や言葉で、人に何かを伝えるものだからです」と言って、黒板にひらがなの「うた」という二文字と、幾つかの漢字を並べて書かれた。縦書きで右から順に一つ目は「詩」、二つ目は「唄」、三つ目に「歌」と書いてから、最後に板書されたのは「訴」という文字だった。それは私にとって、とても意外な文字だったので、五十数年経った今でもそのときのことを克明に憶えている。一瞬「宛て字じゃないの?」と思った直後、「日本書紀に『うた』という意味でこの文字が使われているので学術的根拠があります」と言われた。その後、その授業のことはすっかり忘れてしまっていたが、今回、いくつかの「アリラン」の歌詞内容を検討しているとき、急にそのときの授業の一コマを思い出したのだった。「アリラン」に限らず日本においても、「恨み節」のすべて、そして反戦歌などメッセージ性の強いうたはすべて「訴」ではないか 若かった、当時の自分にはピンと来なかったけれど、五十数年の間にその後の自分は、詩・唄・歌以外に、たくさんの「訴」と出会ってきて、それらに共感する場面も沢山体験してきたなあと改めて思った。また、半世紀経ち、その教授の授業内容はすっかり忘れてしまっているのに、〝余談〟と称して話された「うた」、とりわけ「訴」のことが、今頃になってこんなに身に沁みることもあるのだから、若い人や子どもたちにも伝えておこう、と思ったのだった。
ピアノなど、弾けても弾けなくても人生はさほど変わらないかも知れない。だが、感動するほどの音楽に出会ったことがあるか、またそれらの体験の積み重ねによって、日常の様ざまなこと、いろんなことに感動できる感性が養えたかどうかということによっては人生は変わる。加えて、ピアノを通してピアノ以外の音楽にまで興味や関心を持てるようになったとしたら、人生はもっと変わるだろう。そしてその「音楽」の範疇は芸術だけではないはず。もっと広く、「文化」としてのそれが含まれているほうが、ものの見方、考え方、生き方において、人を豊かに、幸せにしてくれるような気がする。
音高・音大の入試を控えた二人の受験生に課題曲と何の関係もない「八木節」の連弾曲を与えた。バッハやベートーヴェンやショパンだけが人を支える音楽なのではないということ、自分達がこれから歩もうとしている道の先で、どれだけの風景に出会えるのかは、近視用のメガネや顕微鏡では見えないということ、そして、よくある、きまった風景以外のものを自ら見ようとする意欲や、多くのことへの関心がない限り、何も見えないし、何にも出会えない、ということを体験して知ってほしかったから。自分が知っている(つもりの)曲だけを、それらしく安易に弾く、一人よがりで自己満足の音楽では誰も共感も感動もしないうえ、誰をも幸福にすることができない。それでは自分も本当には幸福にはなれない。常に新しいことに挑戦し、新鮮な気持ちでそれに没頭することは大切なことだと思う。
今回、自分達が弾く連弾曲を相手と二人で調べて皆で二六ページの小冊子を作ることになった。最近では、何か一つ、調べごとをしようとする時、簡単にネットで検索し、誰も文章責任を負うことのない間違った記事や、専門家ではない人間が書いた情報を、安易に信じ、それを鵜呑みすることで、勉強したつもりになってしまう若者がとても多いが、それらの信憑性を自分で判断できない「学生」は、時間がかかっても、やはり、権威ある音楽事典や専門家の著書から学び、そこから派生したことや付随することを知って行くという、いわゆる〝勉強の仕方〟をこそ学ぶべきである。そのようなことも伝えるきっかけがあって良かったと思う。
プログラムの最後は、「阿波踊り」だった。友人が続けている阿波踊りの「連」(れん)の人達が、ボランティアで参加して下さった。八月になると毎年テレビのニュースなどで目にすることはあっても、本ものを一度も見たことのない生徒たちのみならず、会場にいたおそらくすべての人達が熱くなる舞台だったと思う。四百年の歴史を持つ日本の伝統芸能であり、「連」と呼ばれる、地域ごとの集団がいくつも連なって徳島の街並みを踊り回るこの踊りを、まさかピアノの発表会で目にするとは誰も思わなかったかも知れない。だが私にとっては、こんな良い機会に自国の文化としての誇るべき伝統芸能、阿波踊りを、生徒や会場の若い人達、子ども達にこそ紹介し、生で見てほしかったのだ。「本もの」の迫力は何にも代えがたい。主旨を理解して下さっていた連の人達は、篠笛・鉦・太鼓・男踊りや女踊り数名と共に、六歳から十二~三歳までの三名の子ども踊りも加えて下さっていた。その子ども達の、何と生き生きとして可愛かったこと! リハーサルのときから感動で泣けてしまった。この子たちがこの素晴らしい伝統文化を未来に繋げてくれるのだと思うと訳のわからない涙があふれ出た。きっと会場の客席全員が同じ気持ちで一つになったことと思う。この阿波踊りとて、四百年も前から、労働と日常生活の悲喜こもごもや、災害も含めた天然の四季と人生の春秋をぬって、年に一度の盆休みに、民衆が共に生き抜く力を培う媒体として綿々と在り続けてきたのだと思う。
人が繋がって生きる 民衆が共に生き抜いてきた証しが、何よりも「連」という言葉に象徴されていると思い知らされた一日であった。
2023年12月
JR高槻駅前ロータリーの一角に、小屋とも言えるほど簡易で小さな店舗なのに、不似合いなほど立派な、墨跡風の文字で「天然鯛焼」と書かれた、大きな木製の看板が掲げられた鯛焼屋さんがある。その看板が目に入る度に私は、「天然鯛焼?はァ?」と不審に思いながらも店主にその意味を訊ねに行く時間が持てないでいた。鮮魚ならば、天然鯛と養殖鯛がある。だが、鯛の形をしただけの和菓子に、なぜ「天然」が付くのだろう―私の中のB型虫がそこを通る度にうずうずしていた。
その解答を知ったのは、先週、偶然見たテレビ番組の中だった。
NHKの「ドキュメント72時間」という番組で、四ツ谷駅前の「ふたば」という有名な鯛焼屋店頭での収録が放映されていた時だった。店員の説明によると、溶いた材料を流し込み、あんこをのせて再び溶き材料をかけ、合わせ蓋をして一匹ずつ手で裏返して焼くための長い手持ち棒のついた一個一個の鋳型によって焼かれる鯛焼は「天然鯛焼」、そして、広い鉄板の鯛型のくぼみに材料を流し込み、あんを入れたほうと入れないほうを合わせ、同時に何十個も焼けるのが「養殖鯛焼」というのだそうだ。
その日売れた鯛焼は七二〇個。夜、寒い中、閉店間際に駆け込んだ女性が言った。「三十数年勤めてきた会社の長年の部署から、この歳になって営業に回され、馴れない仕事で一日外歩きして毎日くたくた。でも帰りに一日頑張った自分にご褒美で鯛焼買って、食べながら帰るとこのほんのりした甘さと温かさで、よ~しめげずに明日も頑張るぞ~っていう気持ちになれるんです」―と。
職人さんが火の傍で汗を流しながら、心をこめて裏返し一個一個手焼きして作る天然鯛焼が、誰かの日常の一コマでその人の人生そのものを支えることもあるのだということを知って感動し、一度、高槻駅前の「天然鯛焼」を一個買ってみようと思った。自分はあんこ嫌いのくせに―。(ちえ)
2023年6月
大きな病院はいつでも、予約なのに一~二時間待たされるのは当たり前。なので、毎回私は本を持って行く。
どんなに忙しくても私が沢山本を読めるのは、診察前に長時間待たされるおかげなのだ。何時間遅れても苛々しないだけでなく、小説等、此処といういい所で自分の名前を呼ばれたりすると、「えッ?もう私?」と、少々がっかりする時もあるほど。
そんな私が、ある日、本を持って行くのを忘れて、待つ時間、何気なく視力が及ぶ所の貼り紙をボーッと見ていたら、すぐ傍の壁に面白い物を見つけた。横書きで、一行ごとの頭に漢数字が入っている。行頭を縦に読むと「一・十・百・千・万」となる。近づいて読むと「なるほど~」と思うことばかりで思わず手帳にメモしながら、改めて読み返した。
一読(一日に一度はまとまった文章を読もう)
十笑(笑えることを見つける。笑う頻度が低い人ほど
認知症のリスクが高い)
百吸(一日百回深呼吸。一度で10回それを10回)
千字(文字を書くことは認知能力を高める。できるだけ
漢字を使って、日記、手紙、メモを書く)
万歩(心身共にメタボリックやフレイルを防ぎ、認知能
力も高める) 以上高齢者の健康法。〈日本医師会機関紙より〉
…写し終えて、ふと思った。
長歩きや階段を昇るのは運動性発作が起こってしまう重症喘息なので「万」だけ無理だけど、一から千までは私、全部やってるじゃん。だからこんなに元気なんだ~と。(病院でそれ言う?と自分にツッコミを入れて一人笑う。)
そして思った。「今日、本を忘れてきて良かった~それって神の啓示かも!」(また笑い、もう二笑目と自分に満足。)
続いて思った。「ともあれ人生は、おめでたい者勝ち!だから自分は勝ち組に違いない。」と。うふ。 (ちえ)