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ムジカ工房は、音楽教育家・北村智恵をサポートする、小さなアトリエです。
北村智恵ピアノ教室、コンサートの自主公演、ピアノ指導者セミナー開催等、行なっています。

各駅停車の音楽人


知らない人が知らない人達を連れてきた話

著・北村智恵(2014年8月発行「ムジカ工房通信」80号より転載)

 ムジカ工房通信は、私の仕事上お付き合いのある方々からプライベートな友人達まで、国内はもとより、海外のいろんな国へも郵送している。外国に住むことになった教え子や長年の友人、外国で出会い親しくなった日本人、かつて日本に留学していた外国人留学生の帰国先、等々、――イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、オーストリア、ポーランド、上海、アメリカ......等、二十数通の外国便を毎回郵送している。中でも一番多いのはポーランドで、ポーランド人、日本人、合わせて数通送っているが、そのほとんどがショパン繋がり、もしくは音楽繋がりの友人である。だが、中にはそうではない、四半世紀付き合っているポーランド人や、二十年来の日本人の友人もいる。その内の一人、AKIKOさんはワルシャワのような都会ではなく、古都クラクフから車で何時間もかかる田舎ハルクローヴァの、山の中にあるペンションのオーナーである。二十年前、ワルシャワに住んでいた日本人ピアニストの紹介でそのペンションに泊まりに行ったことがあり、初対面のその日から、私達は長年の友達のように親しくなった。つい最近、「こんな所に日本人」という日本のテレビ番組で、彼女の生き方が紹介され多くの人にも知られているそうだが、日本で結婚・離婚後、三人の子どもを預けて単身、ステンド・グラスの勉強をしにポーランドへ渡り、その後、ポーランドの大自然に魅せられて、軍用ジープがやっと通れるような道なき道に、文字通り自分の手で道をつけ、その先にある山の中の土地を開拓し、その地名を「Ariake」という日本名の住所にしたという驚くような日本人女性である。そう聞くと豪快で大胆な女性のように思われがちだが、実はとても繊細で純粋で、心豊かな愛らしい人である。私が泊まりに行ったとき、アウシュヴィッツへも足を伸ばしたいと言ったら、まだ学生だった彼女の子ども達二人が私を案内してくれた。その内の一人が、その後、仕事上の研修で来日(帰国?)したとき、彼の友人と共に我が家に二~三泊したことがあり、私は息子が泊まりに来たように思えるほど嬉しかった。子ども達も立派に成人して結婚し、今は次女一家も一緒に住んで彼女のペンションを手伝っているようである。私は年四回ずっとこの通信を送り続け、彼女は時折、手紙やメールを送ってくれている。

 七月末、次のようなメールが届いた。

 「久しぶりに通信でお写真を拝見し、お元気そうで何よりです。ちっともお変わりにならないですね。この前、ニジーツェ古城をご案内して山を越えていて、〝ああここで智恵さん達とおにぎりを食べたのだっけ〟と思い出しました。あの時は草原で見通しも良かった気がしましたが、今は生い茂って変わっていました。体もお弱いのに、よくこんなところまで来て下さったと改めて有難く思いました。智恵さんのお書きになった文章を読ませてもらい、それが自分の原点に立ち戻る事や、惑わされないで一番大事なことだけを見つめる事や、心が浄められるような気がします。智恵さんも、休むことなく走り続けてこられたように思います。私も色々あったけれど、好きなこと、好きな場所で生きられるということは、本当に有難いことだとこの頃つくづく思います。昨日は孫達三人で5時間もぶっ続けで花壇の草取り、みんなで抜き取った大量の草を堆肥作りの場所まで運んで一段落。バナナと桃とミルクをミキサーで混ぜてシロップを入れ、それで作ったアイスクリームを頂きながら、〝今日はよく働いたねェ〟と満足そうな孫達。おやすみなさいのハグも今日は心持ち長く強かった気がしました。何といっても労働の同志ですからね。夜はついでに抜いたフキタンポポの茎で佃煮も作りました。(これが美味しい!)今朝はユリアが朝からクレープ作り。あまりに美味しいので訊いたら、私のノートにレシピを細かく書いてくれました。そしてヴァイオリンの練習をした後、今日一日中、私と一緒に鶏小屋の掃除を徹底的にやりました。にわとり達のクククという声が、だんだん嬉しそうになって行くのがわかるねと話しました。動物小屋の屋根裏にしまってあるワラを引張り出すのも彼女。ユリアが大きなフォークと格闘しながら下に落としたワラをお母さん、のぶと私が袋に詰め、鶏小屋に予備として置いておくことにしたのです。ワラを敷き置く先から、そこに行ってはつついている鶏たちを見て、ウフフと笑って、〝良かったね!喜んでくれて。あんた達いつも新鮮たまごをありがとうね〟と、たまごがけご飯が大好きなユリアならではの鶏たちへのお礼でした。最後に彼女は大好きなラヴェンダーの花をワラの上に撒き散らします。ハエや蚊が来ないように、そしていい匂いがするように。汚れたスコップや道具を洗い終って、〝本当に毎日いい夏休みだねェ〟と話しました。力仕事が大好きで、その上お料理大好き、9歳のユリア。皆でジャグジーに入って、夕飯の後、大好きなバレエ〝コッペリア〟(コヴェントガーデンの紅カーテンが小さい頃から好きで、それが出てくると、〝コヴェントガーデン!〟と叫ぶ。)いつか一緒に行けるといいなあと思います。今日のことです。毎日毎日たくさんたくさんいいことがあると思います。」

 ここまで読んで私は感動した。何と豊かで贅沢な、幸福な時間の過ごし方――日本の子ども達に知らせたい生き方だと思った。

 さてその先が今回のメインの用事だった。

 「智恵さん、お願いがあります。二人のポーランド人女性音楽家達と会って下さい。細かい事情は別の添付に書きました。彼女達は京都か大阪に二泊、東京に一泊、後は浜松の国際青少年音楽祭に参加します。きっと素晴らしいコンタクトになると思います。凄い女性達です。私が行けなくて残念ですが助けてあげたいのです。よろしくお願いします。」

 ということで添付資料を見ると、四年前、浜松・ワルシャワ姉妹都市締結二〇周年記念交流コンサートがワルシャワで開催されたときに活躍したイザベラ、モニカ両女史率いる合唱団の青少年達が、今回、五年に一度浜松で開催される浜松国際青少年音楽祭に招待されたものの、ワルシャワ市をはじめとする行政の経済的事情から来日不可能となり、代表の女性二名のみ自費で参加するので、日本における宿泊や食事をサポートしてほしいという内容だった。

 私はその二人の女性を全く知らないけれど、AKIKOさんが助けてあげたいと頼んできた人達だから代わりに助けてあげたいと思い、可能な日時を伝えた。実はその添付資料と日本におけるサポートの依頼は、日本に住んでいる彼女の何人かの友人にも一斉メールを送っていたようで、12日の午後私の家で対談やウェルカム・パーティーをした後、その日の夜なら宿泊OKという人が大阪府内に現れた。そうこうしているうちに、もっと驚くような協力者が現れ、私はやはり日頃の生き方、彼女の人間関係の絆の強さを想った。その人は横浜に住んでいる人と後から判ったが、仕事で台湾から帰国された直後、次のようなメールを送信された。

 「アキコさん、ひと肌脱ぎましょう。本来その日は広島から東京へ飛行機で移動する予定でしたが、前日に名古屋に入っておき、レンタカーを使って名古屋空港で彼女達二人をピックアップし、京都の祇園で昼食をアレンジします。その後夕方引き継ぎの方(高槻に住む私のこと)へ御引渡しします。日本に着いてこの暑さの中うろうろするのは暑くて大変でしょうから。」

 結局、その男性は、親切にも盆休みの道路渋停滞の中、二人のポーランド女性を車に乗せて名古屋空港から京都へ向かい、祇園で観光と昼食を兼ねた時を過ごし、私の家でのウェルカム・パーティーにも一緒に参加して下さった。私は私で、巻き寿司や茄子の田楽、かきあげ天ぷら、冷やし素麺など、日本の文化に触れられるような料理を用意したり、私自身の編曲による日本古謡(さくらさくら)をピアノで聴いてもらったりして、ポーランドから来日した二人の女性音楽家に喜んでもらうことができたと思うが、「ショパン」という共通のキーワードから、お互いの思いを伝え合うことはできたと思うし、それよりも何よりも、ポーランドの片田舎に共通の友人がいるというだけで、ポーランド女性二人をめぐって、私達夫婦とよく似た「お人好し」と呼ばれるような人と新たに出会えたことが、最も嬉しいできごとだった。

 そう、まさしくこれは、「知らない人」が「知らない人達」を我が家へ連れてきた話だったのだから。



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初めて買ったレコード

著・北村智恵(2014年5月発行「ムジカ工房通信」79号より転載)

 ある夜、「おふろラジオ」のスイッチを入れてバスタブに浸かっていたら、丁度、アンカーがゲストを紹介し、「初めて買ったレコード」というテーマで対談を始めた。疲れていたので、初めはボーッと聞いていたこともあって、そのゲストが誰だったのか分からずじまいだったが、団塊世代の人で、ビートルズの話をしていたと思う。浴室を出て、パジャマのボタンを留めながら、ふと、「私が初めて買ったレコードって何だったのだろう?」と思ったとたん、急に気になり出して、昔のレコードを置いている部屋へ行き、脚立に乗ってまで探し出してしまった。埃で手が真っ黒になり、「私、こんな深夜に一体何してんのよ」と苦笑し、「LPではなかったよね、確か小さいレコードだったと思うけど」と、言っても解らない猫に話しかけたりして、あれこれ見ていたら、「あったァ!絶対これだ」45回転の、当時「ドーナツ盤」と呼ばれた、直径20センチくらいのレコードをひとまとめにして置いてあった場所で見つけ、その一枚のジャケットを見たとたん、急に記憶が甦った。

 それは、ジリオラ・チンクェッティという、イタリアの、当時16歳の少女が歌っていた「カンツォーネ」のレコードだった。「なつかしい――そうそう、私が初めて自分のお小遣いで買ったレコードって、これよ、これ、間違いなく、これ。」――確信があった。

 第14回サン・レモ音楽祭優勝曲「夢みる想い」と書いてあり、ポニー・テールの少女の笑顔がオレンジ色のハートの正面に浮かび上がっているジャケットだった。原題が"NON HOL'ETA PER AMARTI"と日本語の下に印刷されていたが、それは歌の始まりの部分の歌詞と同じだったので思い出して口遊んでみたら、何と、曲の最後まで原語で歌えてしまい、改めてなつかしく思った。歌詞を一切見ることもないまま、(今ならそれを見るために先ず老眼鏡のメガネを取りに行かないと見えないほどの小さな文字で、歌詞のジャケットの裏に載っていると思うけど――)最後まですらすらと原語で歌えてしまったことが不思議だった。ジリオラ・チンクェッティは16歳だったが、ジャケットを見ると一九六四年の録音になっていて、その年は私も16歳、高校一年生だった。声楽でイタリア歌曲を習っていたので、当時からイタリア語は読めていたのだろう。ラジオ等で耳にしたその曲が好きになり、レコードを買って聴きながら一緒に歌っていたのだと思う。それを見るまで自分のお小遣いで初めて買ったレコードは、きっと「クラシック」だろうと思い込んでいたので、そうではなかったことを意外に思い、他のドーナツ盤を見てみたら、何とそれらも、ピーター・ポール、アンド・マリー(PPM)の、「500マイルもはなれて」や、ロバート・マックスウェル楽団の「ひき潮」だったり――何とその当時買ったクラシックのレコードは、シューマン歌曲集の一枚だけだった。そして一緒に紛れて入っていた、同じサイズでありながら33回転のレコードがあり、その中に、ウィーン・フィルが演奏しているシューベルトの「未完成交響曲」と、カラヤン指揮のビゼーの「カルメン組曲」を見つけた。実は、これもまた意外なことだったが、もう何年も前に夫が、「僕が生れて初めて買ったレコードはシューベルトの未完成とビゼーのカルメンだった」と言っていたことを思い出し、「本当にそうだったんだ――」と、改めてもう一度(?)意外に思った。

 私も夫も団塊世代の人間だが、私達の世代にとっての、いわゆる青春時代は、一般的にはまさしく「ビートルズ」に象徴される時代だったと思う。今でも「ビートルズ世代ですね」と言われることがよくある。だが私自身は、当時もその後も、ビートルズには一切関心がなかった。歌うことも聴くこともなかった。御多分に漏れず周りにビートルズ・ファンは沢山いたし熱狂的な友人もいて、そんな人たちに悪いと思って口に出したことはなかったが、ビートルズは、作品の良いものでも「歌が下手」だと思ったし、歌の心が、少なくとも私の心には届かなかった。私はパットブーンの歌が好きだった。そして、ジリオラ・チンクェッティだけでなく、ボビー・ソロやウィルマ・ゴイクのカンツォーネが好きだった。高校一年生の途中で入院し、二年三カ月を病室で過ごしたが、そのときも当時の「トランジスタ・ラジオ」で、やはり私は、パットブーンやボビー・ソロ、ウィルマ・ゴイクらの歌を聴いていたことを思い出す。

 それらの歌は――皆、美しかった。それらを含め、日本の歌も、まだ、美しかった。メロディーと言葉が合っていて、自然で、フレーズの切れ目でちゃんと息が吸えた。単語の途中で息を吸うような歌手など一人もいなかった。いつ頃からなのだろう?「シンガー・ソングライター」だの「アーティスト」だのと呼ばれていても、言葉のアクセントやイントネーションなど全く無視し、しかも不自然なほど離れた音程で、歌のフレーズとは言い難いような無茶苦茶なメロディー、「個性」と称する不勉強さ、言葉遊びのような、自己満足の、カッコつけの「詩」、どの要素をとってみても、何十年も人の心に棲み続けられる歌とは思えない、そんな歌が今は、あまりにも多すぎると思う。

 子ども達や若い人達の耳には、心に残る美しい旋律、心惹かれる美しい和声、心躍る本当に楽しいリズムに出会わせたい。押しつけがましい音楽ではなく、思わず聴いてしまうような音楽に出会わせたい。それらを知ってしまえば、「本もの」の音楽と、そうでない音楽の違いが自ら判ることと思う。どのようなジャンルの音楽でも、良いものは良い。

 折しも、四月のある日曜日、保護者と共に、ピアノの生徒達を「今年の遠足」と称して、京都コンサートホールへ、オーケストラのコンサートを聴きに連れて行った。その日は、おそらく他の子ども達も、初めて家族連れで、あるいは中学・高校生が初めて自分のお小遣いで、クラブの友達とチケットを買って来たかも知れないというような雰囲気の会場だった。あの京都コンサートホールの大ホールで、しかもオーケストラのコンサートでありながら、「二千円」という料金設定は、本当に有難く良心的で、しかも内容も、そういう子ども達や若い人達向けのものだった。かといって決して子ども達に迎合したプログラムではなく、大阪市音楽団と京都市交響楽団のジョイントで、ブラスバンド(金官)とウィンド・オーケストラ(金官・木管)とオーケストラ(管弦楽)の聴き比べができるようなプログラムだと思った。指揮者ダグラス・ボストックは、初めてクラシック・コンサートを聴きに来たかも知れない子ども達や中高生のために、選曲のみならず、「妥協」や「迎合」ではない本ものの音楽を楽しく解かりやすく提供していたと思う。プログラムは、前半、ブラスとウィンド・オーケストラで、

 ホルスト「吹奏楽のための組曲第一番」(3曲)

 スパーク「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(3曲)

 グレインジャー「リンカンシャーの花束」(6曲)

 そして後半は、オーケストラで

 ハチャトゥリアン「バレエ組曲 ガイーヌ」より「ばらの乙女たちの踊り」「子守歌」「剣の舞」

 レスピーギ「交響詩 ローマの松」全曲(ボルゲーゼ荘の松・カタコンブ近くの松・ジャニコロの松・アッピア街道の松)

 というように、楽器の違いや組み合わせの違いによる面白さも子ども達に充分伝わっていたと思う。私が連れて行った子ども達は、それ以前に、全員で分担してオーケストラのそれぞれの楽器を調べて発表し合っていたので、やはり自分が調べた楽器には特に興味を持ち、演奏者が舞台上に出てくると、ある子どもなど、「あっ、クラリネットだ!」と目を輝かせていたり、チューニングのオーボエが鳴ると、「あれ、オーボエだよね」とニコニコして言った。

 また、私が座っていた席の、通路を隔てた向かい側、斜め前に座っていた小学五~六年生の男の子は、おそらくこのようなコンサートホールへ来るのは初めてだったのだと思うが――そしてまた、周囲のだれも服装のTPOを教えなかったのだろう――多分、午前中、野球をしていて、そのままユニフォーム姿で来ていた。疲れているのか時々うとうとしていたが、ハチャトゥリアンの「剣の舞」が始まったとき、急に背筋を伸ばして座り直し、隣りの席に座っていた母親らしき女性のほうを向いてにっこり笑ったかと思うと、その母親が使っていたオペラ・グラスに手を伸ばし、それを取って自分も舞台を真剣に見るようになった。運動会などで聞き馴れた曲が出てきて嬉しかったのだろう。本当に嬉しそうな、とびきり上等の笑顔だった。

 この子たちが大きくなり、中学生・高校生になったとき、お正月に貰ったお年玉や貯めていたお小遣いで、ハチャトゥリアンの「剣の舞」やレスピーギの「ローマの松」のCDを買ったりするのだろうか――そうあってほしいと思うし、絶対そんなことはない、とは誰も言えない。

 大人になり、何十年も経ったとき、「僕が初めて自分のお小遣いで買ったCDは〝剣の舞〟です。」「私が初めて、貰ったお年玉で買ったCDはレスピーギの〝ローマの松〟です。」などと言ってくれる日が、必ずくると子ども達を信じよう――そう思いながら、ホールを出て、一緒にコンサートを聴いた子ども達と共に、隣りの植物園で黄昏れ前の桜を眺めた。



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