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ムジカ工房は、音楽教育家・北村智恵をサポートする、小さなアトリエです。
北村智恵ピアノ教室、コンサートの自主公演、ピアノ指導者セミナー開催等、行なっています。

各駅停車の音楽人

初めて買ったレコード

著・北村智恵(2014年5月発行「ムジカ工房通信」79号より転載)

 ある夜、「おふろラジオ」のスイッチを入れてバスタブに浸かっていたら、丁度、アンカーがゲストを紹介し、「初めて買ったレコード」というテーマで対談を始めた。疲れていたので、初めはボーッと聞いていたこともあって、そのゲストが誰だったのか分からずじまいだったが、団塊世代の人で、ビートルズの話をしていたと思う。浴室を出て、パジャマのボタンを留めながら、ふと、「私が初めて買ったレコードって何だったのだろう?」と思ったとたん、急に気になり出して、昔のレコードを置いている部屋へ行き、脚立に乗ってまで探し出してしまった。埃で手が真っ黒になり、「私、こんな深夜に一体何してんのよ」と苦笑し、「LPではなかったよね、確か小さいレコードだったと思うけど」と、言っても解らない猫に話しかけたりして、あれこれ見ていたら、「あったァ!絶対これだ」45回転の、当時「ドーナツ盤」と呼ばれた、直径20センチくらいのレコードをひとまとめにして置いてあった場所で見つけ、その一枚のジャケットを見たとたん、急に記憶が甦った。

 それは、ジリオラ・チンクェッティという、イタリアの、当時16歳の少女が歌っていた「カンツォーネ」のレコードだった。「なつかしい――そうそう、私が初めて自分のお小遣いで買ったレコードって、これよ、これ、間違いなく、これ。」――確信があった。

 第14回サン・レモ音楽祭優勝曲「夢みる想い」と書いてあり、ポニー・テールの少女の笑顔がオレンジ色のハートの正面に浮かび上がっているジャケットだった。原題が"NON HOL'ETA PER AMARTI"と日本語の下に印刷されていたが、それは歌の始まりの部分の歌詞と同じだったので思い出して口遊んでみたら、何と、曲の最後まで原語で歌えてしまい、改めてなつかしく思った。歌詞を一切見ることもないまま、(今ならそれを見るために先ず老眼鏡のメガネを取りに行かないと見えないほどの小さな文字で、歌詞のジャケットの裏に載っていると思うけど――)最後まですらすらと原語で歌えてしまったことが不思議だった。ジリオラ・チンクェッティは16歳だったが、ジャケットを見ると一九六四年の録音になっていて、その年は私も16歳、高校一年生だった。声楽でイタリア歌曲を習っていたので、当時からイタリア語は読めていたのだろう。ラジオ等で耳にしたその曲が好きになり、レコードを買って聴きながら一緒に歌っていたのだと思う。それを見るまで自分のお小遣いで初めて買ったレコードは、きっと「クラシック」だろうと思い込んでいたので、そうではなかったことを意外に思い、他のドーナツ盤を見てみたら、何とそれらも、ピーター・ポール、アンド・マリー(PPM)の、「500マイルもはなれて」や、ロバート・マックスウェル楽団の「ひき潮」だったり――何とその当時買ったクラシックのレコードは、シューマン歌曲集の一枚だけだった。そして一緒に紛れて入っていた、同じサイズでありながら33回転のレコードがあり、その中に、ウィーン・フィルが演奏しているシューベルトの「未完成交響曲」と、カラヤン指揮のビゼーの「カルメン組曲」を見つけた。実は、これもまた意外なことだったが、もう何年も前に夫が、「僕が生れて初めて買ったレコードはシューベルトの未完成とビゼーのカルメンだった」と言っていたことを思い出し、「本当にそうだったんだ――」と、改めてもう一度(?)意外に思った。

 私も夫も団塊世代の人間だが、私達の世代にとっての、いわゆる青春時代は、一般的にはまさしく「ビートルズ」に象徴される時代だったと思う。今でも「ビートルズ世代ですね」と言われることがよくある。だが私自身は、当時もその後も、ビートルズには一切関心がなかった。歌うことも聴くこともなかった。御多分に漏れず周りにビートルズ・ファンは沢山いたし熱狂的な友人もいて、そんな人たちに悪いと思って口に出したことはなかったが、ビートルズは、作品の良いものでも「歌が下手」だと思ったし、歌の心が、少なくとも私の心には届かなかった。私はパットブーンの歌が好きだった。そして、ジリオラ・チンクェッティだけでなく、ボビー・ソロやウィルマ・ゴイクのカンツォーネが好きだった。高校一年生の途中で入院し、二年三カ月を病室で過ごしたが、そのときも当時の「トランジスタ・ラジオ」で、やはり私は、パットブーンやボビー・ソロ、ウィルマ・ゴイクらの歌を聴いていたことを思い出す。

 それらの歌は――皆、美しかった。それらを含め、日本の歌も、まだ、美しかった。メロディーと言葉が合っていて、自然で、フレーズの切れ目でちゃんと息が吸えた。単語の途中で息を吸うような歌手など一人もいなかった。いつ頃からなのだろう?「シンガー・ソングライター」だの「アーティスト」だのと呼ばれていても、言葉のアクセントやイントネーションなど全く無視し、しかも不自然なほど離れた音程で、歌のフレーズとは言い難いような無茶苦茶なメロディー、「個性」と称する不勉強さ、言葉遊びのような、自己満足の、カッコつけの「詩」、どの要素をとってみても、何十年も人の心に棲み続けられる歌とは思えない、そんな歌が今は、あまりにも多すぎると思う。

 子ども達や若い人達の耳には、心に残る美しい旋律、心惹かれる美しい和声、心躍る本当に楽しいリズムに出会わせたい。押しつけがましい音楽ではなく、思わず聴いてしまうような音楽に出会わせたい。それらを知ってしまえば、「本もの」の音楽と、そうでない音楽の違いが自ら判ることと思う。どのようなジャンルの音楽でも、良いものは良い。

 折しも、四月のある日曜日、保護者と共に、ピアノの生徒達を「今年の遠足」と称して、京都コンサートホールへ、オーケストラのコンサートを聴きに連れて行った。その日は、おそらく他の子ども達も、初めて家族連れで、あるいは中学・高校生が初めて自分のお小遣いで、クラブの友達とチケットを買って来たかも知れないというような雰囲気の会場だった。あの京都コンサートホールの大ホールで、しかもオーケストラのコンサートでありながら、「二千円」という料金設定は、本当に有難く良心的で、しかも内容も、そういう子ども達や若い人達向けのものだった。かといって決して子ども達に迎合したプログラムではなく、大阪市音楽団と京都市交響楽団のジョイントで、ブラスバンド(金官)とウィンド・オーケストラ(金官・木管)とオーケストラ(管弦楽)の聴き比べができるようなプログラムだと思った。指揮者ダグラス・ボストックは、初めてクラシック・コンサートを聴きに来たかも知れない子ども達や中高生のために、選曲のみならず、「妥協」や「迎合」ではない本ものの音楽を楽しく解かりやすく提供していたと思う。プログラムは、前半、ブラスとウィンド・オーケストラで、

 ホルスト「吹奏楽のための組曲第一番」(3曲)

 スパーク「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(3曲)

 グレインジャー「リンカンシャーの花束」(6曲)

 そして後半は、オーケストラで

 ハチャトゥリアン「バレエ組曲 ガイーヌ」より「ばらの乙女たちの踊り」「子守歌」「剣の舞」

 レスピーギ「交響詩 ローマの松」全曲(ボルゲーゼ荘の松・カタコンブ近くの松・ジャニコロの松・アッピア街道の松)

 というように、楽器の違いや組み合わせの違いによる面白さも子ども達に充分伝わっていたと思う。私が連れて行った子ども達は、それ以前に、全員で分担してオーケストラのそれぞれの楽器を調べて発表し合っていたので、やはり自分が調べた楽器には特に興味を持ち、演奏者が舞台上に出てくると、ある子どもなど、「あっ、クラリネットだ!」と目を輝かせていたり、チューニングのオーボエが鳴ると、「あれ、オーボエだよね」とニコニコして言った。

 また、私が座っていた席の、通路を隔てた向かい側、斜め前に座っていた小学五~六年生の男の子は、おそらくこのようなコンサートホールへ来るのは初めてだったのだと思うが――そしてまた、周囲のだれも服装のTPOを教えなかったのだろう――多分、午前中、野球をしていて、そのままユニフォーム姿で来ていた。疲れているのか時々うとうとしていたが、ハチャトゥリアンの「剣の舞」が始まったとき、急に背筋を伸ばして座り直し、隣りの席に座っていた母親らしき女性のほうを向いてにっこり笑ったかと思うと、その母親が使っていたオペラ・グラスに手を伸ばし、それを取って自分も舞台を真剣に見るようになった。運動会などで聞き馴れた曲が出てきて嬉しかったのだろう。本当に嬉しそうな、とびきり上等の笑顔だった。

 この子たちが大きくなり、中学生・高校生になったとき、お正月に貰ったお年玉や貯めていたお小遣いで、ハチャトゥリアンの「剣の舞」やレスピーギの「ローマの松」のCDを買ったりするのだろうか――そうあってほしいと思うし、絶対そんなことはない、とは誰も言えない。

 大人になり、何十年も経ったとき、「僕が初めて自分のお小遣いで買ったCDは〝剣の舞〟です。」「私が初めて、貰ったお年玉で買ったCDはレスピーギの〝ローマの松〟です。」などと言ってくれる日が、必ずくると子ども達を信じよう――そう思いながら、ホールを出て、一緒にコンサートを聴いた子ども達と共に、隣りの植物園で黄昏れ前の桜を眺めた。



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